映画小説『ひるなかの流星』を読みました!率直に思ったこと
少し気になって映画ノベライズの『ひるなかの流星』を読みました。今回はその感想を書いていきたいと思います。
ちなみにこの本の元になっている映画や原作の漫画に関しては全く分かりませんTTごめんなさい。なので映画ノベライズのみの話になっています。この小説だけを読んだ率直な感想をずらずらと書いていきたいと思います。原作を全く見たことがない人が読んだらどのような感想を持つのか伝えられれば良いと思います。
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僕の読んだのはこれです。よかったら読んでみてください^^
物語は主人公である「与謝野すずめ」の父がバングラデシュに転勤になり、母も父に着いて行くことになります。
当のすずめはというと、父の転勤に合わせて今まで住んでいた田舎から叔父のいる東京へ行くことになり、高校も東京の高校に転校することになるというお話です。
そこから、上京初日に迷子のところを助けてくれた後に担任の先生だと知る「獅子尾」や、転校先のクラスで席が隣の「馬村」、そしてすずめとの三角関係の恋に発展していきます。
先生を含めた学園もののラブコメですね。話は面白かったです。最後まですずめが獅子尾とくっつくのか馬村とくっつくのか分からなかったのでドキドキでした。僕は馬村とくっついてほしいと思っていたので満足のラストでした。
ラブコメはやはり付き合うまでの過程が面白いですよね。
ラブコメでは二人の気持ちのすれ違いや勘違いから物語を展開していくことが多いですけど、
付き合っていない状態の気持ちのすれ違いはもどかしいな~と感じますが、
付き合っている状態での気持ちのすれ違いはイライラするときがあるんですよね。
分かってもらえるでしょうか?
付き合っているのだからもっとコミュニケーションとってすれ違いや勘違いを予防しよう!なんて思うんですけどそんなことを言ったら話が展開しないのはわかっていますが。
付き合っていないと展開的に進展しかありませんが(絶好状態になるとかは別ですが)、付き合っていると関係の後退もありえますからね。せっかく付き合ったのに、おいおい逆戻りかよ!ってなっちゃって。
『ひるなかの流星』にも先生と生徒という関係のせいで正直な気持ちが伝えられないなんて場面がありましたが、これはすれ違いに当てはまるのでしょうかね。生徒(すずめ)と先生(獅子尾)で相思相愛の関係になっているのに、
生徒(すずめ)の
「わたしのこと、好きじゃないんですか?」
という問いに対して、
先生(獅子尾)の
「好きじゃなかった。ごめん」
なんて返答。
「「いや先生!あんた好きでしょう!!」」ってツッコみたくなります。先生の方は自分の気持ち押し殺して苦しがってるし、生徒は返答を鵜呑みにして好きじゃないんだと思い込んでしまってる。誰も得してない、損している状態。これは気持ちのすれ違いの一種ですかね。
これは読んでる途中に気付いたんですけど、この作品の特徴として登場人物のほとんどに動物の名前が入っています。たぶんすずめの通っている高校の関係者はそうなっているのだと思われます。どのような具合かというと、「馬村」だったら馬で、「獅子尾」なら獅子、「すずめ」はそのまま雀というような感じです。ほかにもクラスメートの名前も動物の名前がつかわれていました。僕は読み始めの時に動物の名前で登場人物の関係を整理していました。活字の時はこういう仕様は助かりますね。
最後にここにちょっと触れておきたいです。馬村がすずめに好意を抱いたという所です。馬村は始めの頃、すずめを突き離す様な態度を取って本当に嫌そうにしていたのに、途中から人が変わったかのようにべた惚れになっていったんですよ。急展開だなぁ馬村の恋心!って思いましたね。
すずめは席が隣だった馬村に転入早々真正面から友達になってくださいと言ってみたり、女子に免疫がない馬村の反応を面白がってボディタッチを繰り返してみたりと、健全な男子高校生には酷なことを多々行っていたのが原因ですね。多分。
女子に免疫がない馬村なので、単純接触効果ですずめが気になる女の子になっていったのでしょうね。また馬村にはすずめが好みの女の子だったとか。
まあ実際すずめは活字でも内面の可愛い様子がうかがえましたので実際可愛い子なのだと思います。
女の子にあんな風にちょっかいを出されたら嫌でも気になってしまいますよね。気になった結果が、馬村のように好意に結びつくのか、ただのうざいやつ認定になるのかは分かりませんが。
でもすずめは人がよさそうな女の子なので高確率で前者になると思います。僕も馬村のようにされたら前者でしょう。後はやっぱり顔によりますよね。
ここまで書いてみて、あまり作品の内容に触れてはいませんでしたが、面白い作品でした。王道の少女漫画・ラブコメというスタイルです。今回僕が読んだのは映画を小説にしたものだったので、いつか機会があれば原作の漫画も読んでみたいと思います。映画の話を読んだ後に読む原作というのは一体どんな風に感じるのか気になるところです。原作の方が情報量は多いと思うので、映画の話で完結している僕の『ひるなかの流星』にまだ知らない『ひるなかの流星』を運んできてくれたら嬉しいです。
昼に流れ星は見えるのでしょうか?
またね~
自分に自信がないのはなぜなのか?
こんにちは、ラッ子くんです^^お久しぶりでございます!
今回は自分に自信がない人は「どうして、自信がないのか?」について考えてみました。
先に伝えておきますが、僕は決して自信満々なタイプではありません。むしろ自信がないタイプです。なのになぜ今回このような記事を書こうかと思ったのかというと、ここでの考察を通して、僕が自信がないタイプの人間から自信満々タイプの人間になるためのヒントが出てくるかもしれないと思ったからです!自分に自信がないなと感じる人は僕と一緒に自信について考えて行きましょう!もう自分には自信が備わっていてこれ以上必要ないよという方も、あなたの自信はどこからきているのかを探ってみましょう。少しばかりお付き合いくださいませ^^
目次
どうして自信を持てないのか
自信がないことを公言している僕が言っても説得力がないかもしれませんが、自信を持てないのは自信への裏付けがないからです。自信を持つには裏付け、つまり根拠が必要になります。自分に自信を持ちたかったら自分に対して自信が持てるという確かな裏付け(根拠)が必要になるのです。例えば、容姿が整っていたり、経済力があったり、社交的で友達が多いなどなどです。そういった要因が自分の自信の裏付けになるのだと思います。当たり前のことを言っていますね。要するに僕はそのような裏付けできる要因をもっていませんので自信がないのは当然なのです。裏付けがないのに自信を持っていたら、それは周りから白い目で見られるあの「根拠のない自信」というやつですね。
根拠のいらない自信
上では自信を持つためには裏付け(根拠)が必要と言いましたが、中には根拠を必要としない「根拠のない自信」というものがあります。一般的に自信があるということは自信を持てる理由をもっているためなのですが、「根拠のない自信」を持てる人はその理由がなくても大丈夫ということですね。そんな人いるのかどうか。
自信を持つにはどうしたらいいのか
上で書いたとおり、自信を持つには裏付け(根拠)が必要になります。
「僕は〇〇することに自信があるよ!理由は✕✕だからさ!」の”✕✕”の部分が重要ということです。
極端に言うと”✕✕”の部分が出来ているなら後は勝手に自信が付いてきます。「英語を沢山勉強したから明日の英語テストに自信がついた」とか、「美容院に行ってエステにも行ったから、容姿に自信がついた」とか。自分に自信を付けたかったら、自分を信じれるという確かな根拠を探さないといけないのです。もしくは努力して根拠を作ってしまいましょう。その努力は確かに自信を持つことを裏付けしてくれるに違いありません。始めから自信満々になるとはいかないでしょうから、苦手意識のあるものや、自信を付けたい事柄を少しずつでいいので関わって行けたら、少しでも自信をもつための根拠につながるはずです。
こんな僕が偉そうに言っていますが、僕も色んなものに自信を持てるように、様々なものと関わっていけたらいいなと思います。そしてゆくゆくは自分自身の存在に自信を持つほどになれればいいなと思います。
またね~
【完全版】ネタバレ注意!映画『夜は短し歩けよ乙女』の原作とは違うところと感想
4月7日公開の映画『夜は短し歩けよ乙女』を数日遅れながら観てまいりました!
観て思ったのですが、原作と異なる箇所が多々あったので忘れぬうちに覚えている範囲で書き留めておきます。観ていない方にはネタバレになってしまいますのでご注意ください。
またこの記事は前に投稿した下の記事をまとめ・加筆したものですので、このままこの記事をご覧ください。
是非興味のある方は原作の方も読んでみてください。映画が何倍も面白く感じますよ^^
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目次
映画化での変更点
すべてが一夜の出来事になっている
原作では全四章編成で、その四つの章に春夏秋冬の時期が割り当てられています。しかし、映画では四章編成は変わらないものの、一夜の出来事ということになっていました。
ここの変更点にはちょっとびっくりしました。
夜長いな・・・ってなりましたね。
ずっと夜だな・・・っても思いました。
しかし章の間はスムーズに進行していたのですんなり受け入れなれると思います。
冒頭の祝いの会より前からナカメ作戦を実行していた
一夜の出来事に変更になったからなのでしょうか、先輩は冒頭の祝いの会の時点で乙女との外堀りをけっこう埋めていたようです。
つまり物語の始まり以前から先輩と乙女との外堀は埋まっていたんですね。一夜の出来事で外堀りを埋めきるのは至難の業ですから、この変更には納得ですね
おともだちパンチが母直伝になっていた
細かいところですが、おともだちパンチが原作では姉直伝に対し、映画では母直伝に変更されていました。さらに、乙女は武道を嗜んでいたという追加要素もありました。
一章で先輩は東堂さんにズボンを恵んでもらえなかった
原作では東堂さんが古本屋から古着を借りてきて先輩に恵んであげるのですが、映画では同じシチュエーションにも関わらず、東堂さんは先輩に古着を恵んであげることはありませんでした。
先輩は黒髪の乙女のおともだちパンチを食らう
飲み比べの後、李白の電車の屋上にて、原作で先輩は「大丈夫ですか」と乙女に声をかけられるのですが、映画では東堂さんにズボンを恵んでもらえなかったこともあり、半裸で乙女に会ってしまったのでおともだちパンチを食らう破目になりました。先輩可哀想です。
飲み比べの時点で李白さんは人生に不満を抱いていた
原作では乙女の「お幸せですか」という問いに李白さんは「無論」と答えていますが、映画では「人生は孤独なもの、苦しいもの」などと悲観的でした。
飲み比べ後の屋上で緋鯉が降ってくることはなかった
一章の大きな変更点です。映画ではこれのせいで、先輩が降ってくる緋鯉とぶつかり乙女に「大丈夫ですか」と声をかけられることも無くなり、おともだちパンチを食らう破目になるのですが。
緋鯉はいつ降ってくるのかというと三章の文化祭です。
ちなみに、原作では緋鯉が降ってきた屋上で東堂さんは乙女におともだちパンチ食らっていますが、映画では乙女が飲み比べに勝ち、借金が帳消しになった直後に食らっています。
理由はどちらも乙女に接吻しようとしたからですね。けしからん東堂!
一章の宴会後、すぐに古本市に向かう
映画では飲み比べが終わって、その後の宴会も終わったあと、乙女と樋口さんと羽貫さんは川を見ていると古本市のチラシが流れてきます。それを見た乙女がラ・タ・タ・タムを突然思い出し、そのまま古本市に出かけます。
還暦祝いの席で樋口さんが芸を見せるも受けなかった
盛り上がりに欠けていた還暦祝いの席で樋口さんは芸をするのですが、原作では浮遊術を使い天狗さながらの妙技を披露し店全体を盛り上げたのですが、映画ではインチキ浮遊術を披露し幻滅されます。
年齢ごとに時間の流れが違う
乙女の時間の流れは普通なのに対し、還暦祝いの方たちは自分のしている時計の時間の流れが極端に早く、人生に時間がないことを嘆いていました。ちなみに李白さんの時計は滅茶苦茶早いです。
この表現は原作には全くありませんでしたので、映画の完全オリジナルの仕様となります。
先輩はラ・タ・タ・タムのことを事務局長から聞かされる
映画では第一章の後半、つまり飲み比べが終わった後、先輩は乙女からおともだちパンチを食らい川に落ちるのですが、その後事務局長に拾われます。先輩が拾われ目を覚ました先で事務局長から、乙女が手に入れたがっているラ・タ・タ・タムという絵本の話を聞かされることになります。原作では先輩はラ・タ・タ・タムのことを古本市の神の美少年から聞いていましたね。
古本市の神は小津のような見た目だった
原作では美少年と書かれていましたが、映画では『四畳半神話大系』の小津が幼くなったような姿に変わっていました。さすがに小津を美少年というのは無理があるのでここは変更点ですね。
先輩を火鍋に誘ったのは東堂さんだった
原作では先輩は恩のある千歳屋の若旦那に頼まれて火鍋に参加するのですが、映画では千歳屋は登場せず、東堂さんが先輩を火鍋に誘うのでした。
ちなみに原作でも映画でも先輩が手に入れてくれと頼まれたのは葛飾北斎の春本です
火鍋のとき熱々の麦茶が無かった
原作では火鍋を食べる際、脱水症状にならないように熱々の麦茶を飲みながら食べていたのですが、映画では麦茶は出てきませんでした。危険ですね。
映画ではさらに追い討ちをかけるように、火鍋と同じくらい辛いラーメンと餃子が出てきました。
僕けっこう麦茶飲まないと脱水で死ぬって設定好きです。
ラ・タ・タ・タムは開放されなかった
原作では、乙女の探していたラ・タ・タ・タムは李白から古本市の神の手によって絵本コーナーに返され、それを乙女が手に入れます。しかし映画では、火鍋チャレンジで勝ち残った先輩が最後までラ・タ・タ・タムを離さなかったので、その時点では乙女には渡らず物語最終局面まで先輩が所持しています。
先輩の執念がうかがえますね!
古本市でゲリラ演劇「偏屈王」が開演された
これにはちょっとびっくりしました。
原作では古本市の話(第二章)の時点でゲリラ演劇「偏屈王」は名前すら登場していませんから、映画での古本市で出てきたのは意外でした。
原作の内容に沿うだけではないところが映画のおもしろさだなと実感しました。
古本市から文化祭へ行く
タイトルの通り、乙女は古本市から直行で文化祭に行きました。すべてのことが一夜の出来事として進行しているのでこうなりますよね。原作では物語は一年を通した出来事として書かれているのですよ。
緋鯉のぬいぐるみが緋鯉のジャケットに変更
原作では、乙女は射的で手に入れた大きな緋鯉のぬいぐるみ?を紐を使って背負っているのですが、映画ではそのまま背負える形の緋鯉ジャケットに変わっていました。
こっちの方が断然背負いやすそうですもんね。あと、乙女の衣装を替えたかったのかもしれませんね。ずっと赤いワンピースでは飽きてきちゃうかもです。
先輩は最終幕偏屈王が始まってから割り込んだ
原作では開演直前に先輩はパンツ総番長に主役を変われと言ってジャックし、偏屈王役として先輩がステージに上がり、プリンセス・ダルマ役の乙女と最終幕を演じ切り最後二人は抱き合ってエンドなのですが、映画ではパンツ総番長と乙女が偏屈王を演じている際、横からパンツ総番長に突撃し、パンツ総番長と入れ替わる形で舞台をジャックしていました。
パンツ総番長の探していた女性は女装した事務局長だった
これはなんとも酷い話です。
僕がパンツ総番長の立場だったら立ち直れません。
原作では、パンツ総番長は須田紀子さんという本物の女性に恋をし、偏屈王を公開しながら探しているのですが、映画では探していた女性のポジションが女装していた事務局長ということになっていました。
原作を読んだことのある方なら分かると思いますが、像の尻の須田紀子さんは出てこないんですよ。
そのかわり、偏屈王の監督?のような女性が紀子さんという名前で登場し、なんやかんやあってパンツ総番長と恋人関係になります。ここも映画化での大きな変化ですね。
パンツ総番長と恋人になる紀子さんを分かりやすく書くと、
原作→『像の尻』の紀子さん
映画→偏屈王監督の紀子さん
という風になります。
東堂さんの緋鯉は偏屈王最終幕で降ってくる
上のタイトルの方で”なんやかんやあって恋人関係になります”と書いたところの”なんやかんや”に当たるのがこの部分です。
原作では羽貫さんが空に投げた達磨がパンツ総番長と紀子さんの頭の上で跳ねるのですが、映画では東堂さんの緋鯉がここにきて突然降ってきて二人の頭の上で跳ねます。
そしてどちらのパターンでも二人は結ばれます。
驚くことに映画では李白さんの風邪を「潤肺露」で治しておりません。
原作では古本屋の神から乙女が「潤肺露」をもらい「潤肺露」で李白さんの風邪を治すのですが、映画では李白さんが「人生は孤独だ」と嘆いているのを乙女が否定することによって風邪の症状が治まりました。
そして李白さんの電車の中から「潤肺露」が出てきました。
先輩が目を覚ました時に乙女と手は繋がれていなかった
原作でも映画でも先輩と乙女は夢の中?で空を飛び、飛びながら先輩が乙女を自室へ連れてきます。そして先輩が布団で目を覚ました際、
原作だと乙女が横に座りながら先輩の手を握ってくれているのですが、
映画では握られていませんでした。悲しい。
先輩は自室で乙女にラ・タ・タ・タムを譲る
原作では古本市の時点で乙女の手に渡っているのですが、映画では先輩がずっと持っていたので、ラストの乙女が先輩の部屋に来てくれたときに渡すことになりました。
乙女の仕草可愛いですね。
映画を見て思った率直な感想
黒髪の乙女について
僕が映画を観ている最中に一番気になっていたところはここです。
黒髪の乙女の性格がちょっと強すぎやしないか?
というところです。
気が強いって言った方がいいのでしょうか。ここを気になっているのは僕だけかもしれませんが、原作の乙女はもっと慎ましい性格だったように思うのですよ。
しかし映画の乙女は好奇心が強すぎるあまり、慎ましさが飲み込まれているように感じました。
原作の乙女を「好奇心:慎ましさ=3:7」
とするなら、
映画の乙女は「好奇心:慎ましさ=7:3」
ぐらいに感じました。逆転していました。
映画版の乙女を悪く言うつもりはないんですよ。これっぽっちも。乙女は原作でも映画でも、男のハートを鷲掴みにする存在です。比率の逆転ぐらいでこの事実が覆るはずも無いのです。当然僕も両方で鷲掴みにされています。
しかしながら、僕は慎ましい女性が好みであるため、原作版の乙女に惹かれるのは仕方のないことなのです。
あとですね、原作には乙女が好奇心を掻きたてられたときや嬉しい時にする、二足歩行ロボットにステップというものがあるのですが、映画では乙女が両腕を身体の横で回して車輪に見立てて汽車のまねごとのような動きをしておりました。
正直、僕はもうちょっと可愛らしい動きを想像しておりました。
映画版では二足歩行ロボットという言葉は出てきませんでしたね。映画版しか観ていない方に説明をすると、ちょくちょく乙女がしていた汽車のまねごと、あれが原作で言う二足歩行ロボットのステップです。
これはすべて僕の感想なので、なかには想像していたのとぴったり一致しているという方もいらっしゃると思います。すべては個人の見解によりますよね。
ゲリラ演劇「偏屈王」について
ゲリラ演劇「偏屈王」がミュージカル形式だったのに少しだけですが、がっかりを感じております。
別に僕はミュージカル形式だったから偏屈王の良さが無くなったとか、野次を飛ばすつもりはありませんよ!ただこれは僕がミュージカル全般に苦手意識があるせいです。ここに関してはもうホントに僕個人の好みの問題です。
ここまで書いといて不安になってきましたが、原作にミュージカル形式とは書かれていないですよね…書かれていたら申し訳ございません。
「偏屈王」についてはもう一つあります。
僕がけっこう驚きだったのが、
「像の尻」の須田紀子さんが登場しないということです。
そして、
パンツ総番長が探していた女性は女装した事務局長という悲しい事実。
ここのシーンで僕は泣きそうでした、パンツ総番長があまりに不憫で。
しかしパンツ総番長はそれでも良いと言い事務局長と接吻しようとするんです。ここらへんでもうオリジナルの映画を観ているようでした。先がまったく予想できない…。
ピュアな僕は男と女の純愛を観たいと思っていたので、心の中で、
「いや、紀子さん出せよ!!」って唸っていたら、次のシーンで演劇の監督?のような女性がいきなりパンツ総番長に告白したんですよ!
「おいおい、今度は誰だよ笑!?」って思っていたら、その人がまさかの紀子さんでした…。
原作を知っているのにも関わらず展開が読め無さ過ぎて逆に楽しかったです。「像の尻」の紀子さんは出ませんでしたが、監督?の紀子さんは出てきました。
使われなかったセリフ
パンツ総番長は呻いた。
「ハッピーエンドだ。誰もが赤面することうけあいだ」
「それでよし!」
僕、原作のここのシーン大好きなんですよ。最終幕偏屈王の偏屈王役をジャックしようと企てた先輩がパンツ総番長に演劇のラストを聞くシーンです。ハッピーエンドと聞いて先輩は偏屈王役をパンツ総番長から奪い取ります。
先輩やってることあれだけどかっこいい!
ですが、映画では大きくシナリオが変わっているため、このシーンは存在しないのです。つまりこのセリフも言われることはなかったのです!ここのシーン好きな僕はちょっぴり残念。
「泣いておいでですか、先輩」
「泣くものか。眼から、いささか塩水が出た」
また、この後の先輩と乙女の会話も映画のシナリオ上存在しませんので、僕のお気に入りであったこのセリフも聞けませんでした。
涙を堪える先輩を見上げながら、「この人はたいへん良い人だなあ」と私は思いました。
という最終幕偏屈王後、乙女のほんのりする気持ちも聞くことはありませんでした。
ここまでいうと、僕が映画が駄目だったみたいに言っているように聞こえますが、そうじゃありませんよ!僕が好きだと言った一連のシナリオが入っていない代わりに、映画は新しくオリジナルさながらの感動シナリオを用意しています。
どちらも実に良い作品というわけです。
『四畳半神話大系』とのコラボ
森見登美彦さんの作品『四畳半神話大系』のキャラクターやシーンが映画の中にちらほら出てくるところがありました。アニメの『四畳半神話大系』も、今回の映画『夜は短し歩けよ乙女』も原作が森見登美彦さんで 監督が湯浅政明さんだからですね。
こういうのは『四畳半神話大系』ファンや森見さんファンには喜ばれる仕様ですよね。もちろん僕も気付いた時には得意になって観ていました笑。
先輩と乙女の絡みが少ない?
映画では、本編の前からナカメ作戦を実行していたようなので、先輩と乙女の外堀りは埋まっていたのでしょうが、少々本編内での絡みが少ないかなという気がしました。
原作では1年間の出来事を、映画では一夜の出来事としているので仕方ないと言えばそうなのですが。先輩と不毛に絡んでいては映画の尺が足りなくなってしまいますからね。
でももう少し始めの方から、お互いに良い感じの雰囲気を醸し出していても良いのではないかなと思って観ておりました。
あと個人的に、ラストの方で先輩が布団で目を覚ましたとき、乙女と手を繋いでいてほしかったと思っております。
後語り
森見登美彦さんの原作で、『四畳半神話大系』でおなじみの湯浅政明さんが監督ということで、僕はどんなふうになるのかなと滅茶苦茶期待していたんです。実際に観てみると期待通りに面白い出来になっていてこれは映画館に観に行ってよかったなと感じました。
映画化するとなれば当然原作と違うところも出てくるものです。しかし原作には原作の、映画には映画の良さがあるのです。
この『夜は短し歩けよ乙女』という作品もそのような、原作には原作の、映画には映画の良さがある作品だと思います。
そして変わらないのはどちらも、乙女は最高に可愛いですし、先輩はやはり我らが目指すべき「紳士」であるということですね。
森見登美彦さんの他の作品も気になる人は是非こちらも読んでみてください^^
またね~
【感想】映画『夜は短し歩けよ乙女』を観て思ったこと~ネタバレあるよ~
大好きな森見登美彦さんの、
『夜は短し歩けよ乙女』が映画化するということで、公開前から楽しみにしていました。
この作品は絶対観に行こうと思い公開から数日遅れで観に行ってきました。映画を観ていて思うところが多々あったので今回はそこを書いていきたいと思います。
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目次
黒髪の乙女について
僕が映画を観ている最中に一番気になっていたところはここです。
黒髪の乙女の性格がちょっと強すぎやしないか?
というところです。
気が強いって言った方がいいのでしょうか。ここを気になっているのは僕だけかもしれませんが、原作の乙女はもっと慎ましい性格だったように思うのですよ。
しかし映画の乙女は好奇心が強すぎるあまり、慎ましさが飲み込まれているように感じました。
原作の乙女を「好奇心:慎ましさ=3:7」
とするなら、
映画の乙女は「好奇心:慎ましさ=7:3」
ぐらいに感じました。逆転していました。
映画版の乙女を悪く言うつもりはないんですよ。これっぽっちも。乙女は原作でも映画でも、男のハートを鷲掴みにする存在です。比率の逆転ぐらいでこの事実が覆るはずも無いのです。当然僕も両方で鷲掴みにされています。
しかしながら、僕は慎ましい女性が好みであるため、原作版の乙女に惹かれるのは仕方のないことなのです。
あとですね、原作には乙女が好奇心を掻きたてられたときや嬉しい時にする、二足歩行ロボットにステップというものがあるのですが、映画では乙女が両腕を身体の横で回して車輪に見立てて汽車のまねごとのような動きをしておりました。
正直、僕はもうちょっと可愛らしい動きを想像しておりました。
映画版では二足歩行ロボットという言葉は出てきませんでしたね。映画版しか観ていない方に説明をすると、ちょくちょく乙女がしていた汽車のまねごと、あれが原作で言う二足歩行ロボットのステップです。
これはすべて僕の感想なので、なかには想像していたのとぴったり一致しているという方もいらっしゃると思います。すべては個人の見解によりますよね。
ゲリラ演劇「偏屈王」について
ゲリラ演劇「偏屈王」がミュージカル形式だったのに少しだけですが、がっかりを感じております。
別に僕はミュージカル形式だったから偏屈王の良さが無くなったとか、野次を飛ばすつもりはありませんよ!ただこれは僕がミュージカル全般に苦手意識があるせいです。ここに関してはもうホントに僕個人の好みの問題です。
ここまで書いといて不安になってきましたが、原作にミュージカル形式とは書かれていないですよね…書かれていたら申し訳ございません。
「偏屈王」についてはもう一つあります。
僕がけっこう驚きだったのが、
「像の尻」の須田紀子さんが登場しないということです。
そして、
パンツ総番長が探していた女性は女装した事務局長という悲しい事実。
ここのシーンで僕は泣きそうでした、パンツ総番長があまりに不憫で。
しかしパンツ総番長はそれでも良いと言い事務局長と接吻しようとするんです。ここらへんでもうオリジナルの映画を観ているようでした。先がまったく予想できない…。
ピュアな僕は男と女の純愛を観たいと思っていたので、心の中で、
「いや、紀子さん出せよ!!」って唸っていたら、次のシーンで演劇の監督?のような女性がいきなりパンツ総番長に告白したんですよ!
「おいおい、今度は誰だよ笑!?」って思っていたら、その人がまさかの紀子さんでした…。
原作を知っているのにも関わらず展開が読め無さ過ぎて逆に楽しかったです。「像の尻」の紀子さんは出ませんでしたが、監督?の紀子さんは出てきました。
使われなかったセリフ
パンツ総番長は呻いた。
「ハッピーエンドだ。誰もが赤面することうけあいだ」
「それでよし!」
僕、原作のここのシーン大好きなんですよ。最終幕偏屈王の偏屈王役をジャックしようと企てた先輩がパンツ総番長に演劇のラストを聞くシーンです。ハッピーエンドと聞いて先輩は偏屈王役をパンツ総番長から奪い取ります。
先輩やってることあれだけどかっこいい!
ですが、映画では大きくシナリオが変わっているため、このシーンは存在しないのです。つまりこのセリフも言われることはなかったのです!ここのシーン好きな僕はちょっぴり残念。
「泣いておいでですか、先輩」
「泣くものか。眼から、いささか塩水が出た」
また、この後の先輩と乙女の会話も映画のシナリオ上存在しませんので、僕のお気に入りであったこのセリフも聞けませんでした。
涙を堪える先輩を見上げながら、「この人はたいへん良い人だなあ」と私は思いました。
という最終幕偏屈王後、乙女のほんのりする気持ちも聞くことはありませんでした。
ここまでいうと、僕が映画が駄目だったみたいに言っているように聞こえますが、そうじゃありませんよ!僕が好きだと言った一連のシナリオが入っていない代わりに、映画は新しくオリジナルさながらの感動シナリオを用意しています。
どちらも実に良い作品というわけです。
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こういうのは『四畳半神話大系』ファンや森見さんファンには喜ばれる仕様ですよね。もちろん僕も気付いた時には得意になって観ていました笑。
先輩と乙女の絡みが少ない?
映画では、本編の前からナカメ作戦を実行していたようなので、先輩と乙女の外堀りは埋まっていたのでしょうが、少々本編内での絡みが少ないかなという気がしました。
原作では1年間の出来事を、映画では一夜の出来事としているので仕方ないと言えばそうなのですが。先輩と不毛に絡んでいては映画の尺が足りなくなってしまいますからね。
でももう少し始めの方から、お互いに良い感じの雰囲気を醸し出していても良いのではないかなと思って観ておりました。
あと個人的に、ラストの方で先輩が布団で目を覚ましたとき、乙女と手を繋いでいてほしかったと思っております。
後語り
批判的なことばかり書いてしまったように思うのですが、映画は期待を裏切らず面白かったですよ。原作には原作の、映画には映画の良さがあるということです。
そしてどちらの乙女も最高に可愛いですし、先輩はやはり我らが目指すべき「紳士」であるなと感じました。
森見登美彦さんの作品が好きな方、気になっている方なら気に入る作品だと思いますよ^^
夜は短し歩けよ乙女の記事を貼っておくので良かったらこちらも見てみてくださいね。
またね~
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ネタバレ注意!映画『夜は短し歩けよ乙女』の原作と違うところは?第二章~
今回も映画『夜は短し歩けよ乙女』と原作との違いをまとめて行きたいと思います。
今回は第二章からまとめていきます。第一章については前回の記事にまとめてありますので、まだ観ていない方はこちらからご覧ください。seaotterman.hatenablog.com
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目次
映画化での変更点 第二章~
先輩はラ・タ・タ・タムのことを事務局長から聞かされる
映画では第一章の後半、つまり飲み比べが終わった後、先輩は乙女からおともだちパンチを食らい川に落ちるのですが、その後事務局長に拾われます。先輩が拾われ目を覚ました先で事務局長から、乙女が手に入れたがっているラ・タ・タ・タムという絵本の話を聞かされることになります。原作では先輩はラ・タ・タ・タムのことを古本市の神の美少年から聞いていましたね。
古本市の神は小津のような見た目だった
原作では美少年と書かれていましたが、映画では『四畳半神話大系』の小津が幼くなったような姿に変わっていました。さすがに小津を美少年というのは無理があるのでここは変更点ですね。
先輩を火鍋に誘ったのは東堂さんだった
原作では先輩は恩のある千歳屋の若旦那に頼まれて火鍋に参加するのですが、映画では千歳屋は登場せず、東堂さんが先輩を火鍋に誘うのでした。ちなみに原作でも映画でも先輩が手に入れてくれと頼まれたのは葛飾北斎の春本です
火鍋のとき熱々の麦茶が無かった
原作では火鍋を食べる際、脱水症状にならないように熱々の麦茶を飲みながら食べていたのですが、映画では麦茶は出てきませんでした。危険ですね。さらに追い討ちをかけるように映画では、火鍋と同じくらい辛いラーメンと餃子が出てきました。僕けっこう麦茶飲まないと脱水で死ぬって設定好きです。
ラ・タ・タ・タムは開放されなかった
原作では、乙女の探していたラ・タ・タ・タムは李白から古本市の神の手によって絵本コーナーに返され、それを乙女が手に入れます。しかし映画では、火鍋チャレンジで勝ち残った先輩が最後までラ・タ・タ・タムを離さなかったので、その時点では乙女には渡らず物語最終局面まで先輩が所持しています。先輩の執念がうかがえますね!
古本市でゲリラ演劇「偏屈王」が開演された
これにはちょっとびっくりしました。原作では古本市の話(第二章)の時点でゲリラ演劇「偏屈王」は名前すら登場していませんから、映画での古本市で出てきたのは意外でした。原作の内容に沿うだけではないところが映画のおもしろさだなと実感しました。
古本市から文化祭へ行く
タイトルの通り、乙女は古本市から直行で文化祭に行きました。すべてのことが一夜の出来事として進行しているのでこうなりますよね。原作では物語は一年を通した出来事として書かれているのですよ。
緋鯉のぬいぐるみが緋鯉のジャケットに変更
原作では、乙女は射的で手に入れた大きな緋鯉のぬいぐるみ?を紐を使って背負っているのですが、映画ではそのまま背負える形の緋鯉ジャケットに変わっていました。こっちの方が断然背負いやすそうですもんね。あと、乙女の衣装を替えたかったのかもしれませんね。ずっと赤いワンピースでは飽きてきちゃうかもです。
最終幕偏屈王は始まってから先輩が割り込んだ
原作では開演直前に先輩はパンツ総番長に主役を変われと言ってジャックし、偏屈王役として先輩がステージに上がり、プリンセス・ダルマ役の乙女と最終幕を演じ切り最後二人は抱き合ってエンドなのですが、映画ではパンツ総番長と乙女が偏屈王を演じている際、横からパンツ総番長に突撃し、パンツ総番長と入れ替わる形で舞台をジャックしていました。
パンツ総番長の探していた女性は女装した事務局長だった
これはなんとも酷い話です。僕がパンツ総番長の立場だったら立ち直れません。原作では、パンツ総番長は須田紀子さんという本物の女性に恋をし、偏屈王を公開しながら探しているのですが、映画では探していた女性のポジションが女装していた事務局長ということになっていました。原作を読んだことのある方なら分かると思いますが、像の尻の須田紀子さんは出てこないんですよ。
そのかわり、偏屈王の監督?のような女性が紀子さんという名前で登場し、なんやかんやあってパンツ総番長と恋人関係になります。ここも映画化での大きな変化ですね。
パンツ総番長と恋人になる紀子さんを分かりやすく書くと、
原作→『像の尻』の紀子さん
映画→偏屈王監督の紀子さん
という風になります。
東堂さんの緋鯉は偏屈王最終幕で降ってくる
上のタイトルの方で”なんやかんやあって恋人関係になります”と書いたところの”なんやかんや”に当たるのがこの部分です。原作では羽貫さんが空に投げた達磨がパンツ総番長と紀子さんの頭の上で跳ねるのですが、映画では東堂さんの緋鯉がここにきて突然降ってきて二人の頭の上で跳ねます。そしてどちらのパターンでも二人は結ばれます。
潤肺露(ジュンパイロ)は李白さんの電車にあった
驚くことに映画では李白さんの風邪を「潤肺露」で治しておりません。原作では古本屋の神から乙女が「潤肺露」をもらい「潤肺露」で李白さんの風邪を治すのですが、映画では李白さんが「人生は孤独だ」と嘆いているのを乙女が否定することによって風邪の症状が治まりました。そして李白さんの電車の中から「潤肺露」が出てきました。
先輩が目を覚ました時に乙女と手は繋がれていなかった
原作でも映画でも先輩と乙女は夢の中?で空を飛び、飛びながら先輩が乙女を自室へ連れてきます。そして先輩が布団で目を覚ました際、原作だと乙女が横に座りながら先輩の手を握ってくれているのですが、映画では握られていませんでした。悲しい。
先輩は自室で乙女にラ・タ・タ・タムを譲る
原作では古本市の時点で乙女の手に渡っているのですが、映画では先輩がずっと持っていたので、ラストの乙女が先輩の部屋に来てくれたときに渡すことになりました。乙女の仕草可愛いですね。
後語り
他にも相違点があると思いますが、根本から違う部分も多く、挙げていくときりがなくなりそうなのでこのぐらいにしておきます。注意しながら書いてはいますが、僕も映画を一度しか観ていないので間違っているかもしれないです。その時は責め立てずに優しく教えてくれると嬉しいです。
映画版は思っていたよりも、大きく変更されていた部分が多くてびっくりしました。原作を知っている方はこんな風に変わるんだ!とニヤニヤしながら観れると思います。原作を知らない方でも、綺麗におさまっているので安心して楽しめると思いますよ。
第一章から見たい人は下の記事をご覧ください^^
こっちは原作の紹介です。映画を観る前に読んでおくとより映画を楽しめるかと思います!
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ネタバレ注意!映画『夜は短し歩けよ乙女』の原作とは違うところは?
4月7日公開の映画『夜は短し歩けよ乙女』を数日遅れながら観てまいりました!
観て思ったのですが、原作と異なる箇所が多々あったので忘れぬうちに覚えている範囲で書き留めておきます。観ていない方にはネタバレになってしまいますのでご注意ください
是非興味のある方は原作の方も読んでみてください。映画が何倍も面白く感じますよ^^
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目次
映画化での変更点
すべてが一夜の出来事になっている
原作では全四章編成で、その四つの章に春夏秋冬の時期が割り当てられています。しかし、映画では四章編成は変わらないものの、一夜の出来事ということになっていました。
ここの変更点にはちょっとびっくりしました。夜長いな・・・ってなりましたね。あとは、一夜の出来事なので当たり前ですけど、ずっと夜だな・・・っても思いました。しかし章の間はスムーズに進行していたのですんなり受け入れなれると思います。
冒頭の祝いの会より前からナカメ作戦を実行していた
一夜の出来事に変更になったからなのでしょうか、先輩は冒頭の祝いの会の時点で乙女との外堀りをけっこう埋めていたようです。つまり物語の始まり以前から先輩と乙女との外堀は埋まっていたんですね。一夜の出来事で外堀りを埋めきるのは至難の業ですから、この変更には納得ですね
おともだちパンチが母直伝になっていた
細かいところですが、おともだちパンチが原作では姉直伝に対し、映画では母直伝に変更されていました。さらに、乙女は武道を嗜んでいたという追加要素もありました。
一章で先輩は東堂さんにズボンを恵んでもらえなかった
原作では東堂さんが古本屋から古着を借りてきて先輩に恵んであげるのですが、映画では同じシチュエーションにも関わらず、東堂さんは先輩に古着を恵んであげることはありませんでした。
先輩は黒髪の乙女のおともだちパンチを食らう
飲み比べの後、李白の電車の屋上にて、原作で先輩は「大丈夫ですか」と乙女に声をかけられるのですが、映画では東堂さんにズボンを恵んでもらえなかったこともあり、半裸で乙女に会ってしまったのでおともだちパンチを食らう破目になりました。先輩可哀想です。
飲み比べの時点で李白さんは人生に不満を抱いていた
原作では乙女の「お幸せですか」という問いに李白さんは「無論」と答えていますが、映画では「人生は孤独なもの、苦しいもの」などと悲観的でした。
飲み比べ後の屋上で緋鯉が降ってくることはなかった
一章の大きな変更点です。映画ではこれのせいで、先輩が降ってくる緋鯉とぶつかり乙女に「大丈夫ですか」と声をかけられることも無くなり、おともだちパンチを食らう破目になるのですが。緋鯉はいつ降ってくるのかというと三章の文化祭です。
ちなみに、原作では緋鯉が降ってきた屋上で東堂さんは乙女におともだちパンチ食らっていますが、映画では乙女が飲み比べに勝ち、借金が帳消しになった直後に食らっています。理由はどちらも乙女に接吻しようとしたからですね。けしからん東堂!
一章の宴会後、すぐに古本市に向かう
映画では飲み比べが終わって、その後の宴会も終わったあと、乙女と樋口さんと羽貫さんは川を見ていると古本市のチラシが流れてきます。それを見た乙女がラ・タ・タ・タムを突然思い出し、そのまま古本市に出かけます。
還暦祝いの席で樋口さんが芸を見せるも受けなかった
盛り上がりに欠けていた還暦祝いの席で樋口さんは芸をするのですが、原作では浮遊術を使い天狗さながらの妙技を披露し店全体を盛り上げたのですが、映画ではインチキ浮遊術を披露し幻滅されます。
年齢ごとに時間の流れが違う
乙女の時間の流れは普通なのに対し、還暦祝いの方たちは自分のしている時計の時間の流れが極端に早く、人生に時間がないことを嘆いていました。ちなみに李白さんの時計は滅茶苦茶早いです。この表現は原作には全くありませんでしたので、映画の完全オリジナルの仕様となります。
続きはこちらからご覧ください
原作(小説)の見どころピックアップです。これをを見ていただくとより映画が楽しめると思います^^
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【森見登美彦】映画 夜は短し歩けよ乙女 映画の前に見どころピックアップ!
4月7日公開の映画『夜は短し歩けよ乙女』をより一層楽しむために、原作(小説版)の夜は短し歩けよ乙女を読み解いていきたいと思います。
ちょっとした僕の前語りが入っちゃうので、早く本題の『夜は短し歩けよ乙女』の解説を見たい!という方は、目次のストーリーを押して進んでいただきたいです^^
是非興味のある方は読んでみてください。映画が何倍も面白く感じますよ^^
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目次
前語り
僕がこの作品『夜は短し歩けよ乙女』に出会ったのは、僕がまだ高校生なりたての頃でした。まだ森見登美彦氏を知らなかった時期の僕が『四畳半神話大系』を読んで衝撃を受け、森見さんの作品を何でもいいから早く読もうと探していたときです。
古本屋で「も」から始まる作家さんの欄とににらめっこしてこの本を見つけました。
うぬ、なんとも惹かれるタイトルです。
手に取ってみるとカバーイラストが中村佑介さん!
ASIAN KUNG-FU GENERATIONのCDジャケットをなどを手掛けている方ですね。中村佑介さんも大好きなので素敵なコラボレーションで魅了されました。
次読む本はこれに決めた!即買いです。
これが僕と『夜は短し歩けよ乙女』の出会いですね。そして”黒髪の乙女”との出会いでもありました。
それからは僕は現実でも黒髪の乙女を探して止まない青年へとなったのです。
中村佑介さんは洗練された線とベタ塗りの着色で個性全開のイラストをお描きになりますね。じぃっと見ていても飽きるどころか面白さが湧き出てきます。
女の子がいて、動物がいて、奇妙な行動をとっていて、何で?と思うような道具を持っていて、不釣り合いな場所にいたりする。でも、ごちゃごちゃして訳わかんなくなることも無く、すっと頭の中に入ってきて理解できる、不思議な絵です。
あの絵のスタイル大好きです。
ちょっと長くなってしまいましたが、本題に入りたいと思います。
ストーリー
冴えない男子大学生である「私」は、クラブの後輩である「黒髪の乙女」の彼女に一目ぼれするも、親しく言葉を交わすことができないでいた。
「私」は彼女との外堀りを埋めるために、「なるべく彼女の目にとまる作戦」略して「ナカメ作戦」を実行する。
「私」は七転八倒しながらも彼女の眼中に入ろうと、春には酒精に浸った夜の町で、夏には古本市で、秋には学園祭で、個性溢れる曲者たちと珍事件に巻き込まれながら外堀りを埋めまくった。
頻発する”偶然の出逢い”にも「奇遇ですねえ!」と言って、疑うことも、「私」の気持にも気付く気配の無い彼女。季節は冬になり、外堀りを埋めきった「私」と彼女「黒髪の乙女」の関係は今後どのような結末を迎えるのか!?
というような物語です。面白そうですね。そう!面白いんです。
登場人物紹介
先輩(私)
本作の語り手。クラブの後輩である黒髪の乙女に一目ぼれをして、彼女との外堀りを埋めるため、「なるべく彼女の目にとまる作戦」略して「ナカメ作戦」を実行する。
黒髪の乙女
本作の語り手。黒髪を短く切りそろえた、小柄で色白な容姿。好奇心旺盛。
李伯
叡山電車を積み重ねたような三階建の風変わりな乗り物に乗っているお金持ちの老人。夜道で男の下着を奪うことと、偽電気ブランで飲み比べをすることを趣味としている。
樋口さん
いつも浴衣を着ている大学八回生。天狗を自称し、天狗のような術を使う。同作者の『四畳半神話大系』にも登場している。
羽貫さん
樋口さんと一緒にいる美人の女性。歯科衛生士をしている。こちらも同作者の『四畳半神話大系』に登場している。
東堂さん
東堂錦鯉センターを経営していたが、災厄が続き可哀想なことになる中年の男性。そのことで黒髪の乙女の同情を引き、あろうことか黒髪の乙女に不埒を働いた助平な野郎。許せん!
学園祭事務局長
「私」と一回生からの知り合い。男にはもったいない美貌の持ち主。軽音サークル、落語、女装と多岐にわたる趣味がある多彩な男。
パンツ総番長
古い浴衣を着た体躯の良い人物。一年前の文化祭で一目惚れした須田紀子に再び出逢えるその日まで二度とパンツを脱がないと、吉田神社に願を掛けた男。それ故に病気になった。周囲への気遣いを忘れない紳士でもある。ゲリラ演劇「偏屈王」の脚本を書いていた。
須田 紀子
パンツ総番長が惚れている女性。文化祭で「像の尻」という出し物をしていた。
他にも、物語に登場する人物は沢山いますがこれくらいにしておきます。これからさらに加筆していく所存です。
見どころ
「黒髪の乙女」の可愛さ
ひとまず、黒髪の乙女について語るために下の引用を一読して頂きたい。
二足歩行ロボットのステップを踏みました
むんと胸をはって
私はその時のことをひょいと思い出しました。
私はそわそわする自分を持てあまし、部屋にある緋鯉のぬいぐるみをぽかぽか叩いたり、むぎゅっと押しつぶしたりしました。
何が言いたいのかというと、黒髪の乙女の行動への表現がいちいち可愛いのです。特に、”むん”と胸をはるという表現は黒髪の乙女の小柄な形姿と好奇心旺盛な性格が表れているピッタリの表現ではないでしょうか。ひょいと思いだすところにも、キュートさが見え隠れしております。あ~可愛いな。
この様に、いちいち可愛いのが黒髪の乙女なんです。なんせ乙女だから。普通の女子とは違うみたい。こんな子だったら先輩じゃなくても惚れてしまいます。ホント可愛いな。
映画では「おともだちパンチ」を期待しています。彼女の拳が紅葉饅頭よりも可愛いことを願っております。黒髪の乙女の可愛さを存分に味わいましょう!
「先輩(私)」の清純さ
森見さんの描く男子大学生は冴えない。そして筒抜けの阿呆である。それはこの作品『夜は短し歩けよ乙女』に出てくる「先輩(私)」も例外ではありません。
古本市では彼女と同じ本に手を伸ばし、流れでラムネ休憩にしゃれこみ、その後はうんたらかんたらで黒髪の乙女との薔薇色のキャンパスライフを~と妄想計画していたほどに。妄想がテンプレでそれに絶対の自信を持っているところは先輩の愛すべき可愛さです。
「どこまでも暴走する己のロマンチック・エンジンをとどめようがなく、あまりの恥ずかしさに鼻から血を噴いた。」
からも分かるように、「先輩」は恥ずかしい妄想をして計画を練ります。
時には妄想に現実がついていかず計画破綻していることもしばしばですが、しかしその中でも相手の嫌がるような行動は一切取らないし考えもしないのです。先輩の取る行動には少々ツッコみたくなってしまうが、応援したくもなるものばかり。思い返せば先輩はいつだってピュアな心で真っすぐなのです。「俺はただの助平じゃないか」と己の中で葛藤しているときもありましたが、巷の男子大学生に比べれば全く助平ではありません。逆です。紳士です。つまり・・・
先輩は愛すべき阿呆で紳士だったのです!
そんな先輩を愛ある目で見てみてはいかがでしょうか。
曲者ぞろいの楽しさ
樋口さんと羽貫さんとこの二人に連れられた黒髪の乙女が、他人の宴会に混ざり込み、タダ酒を喰らうという場面があります。
ひと息に宴会の懐に踏み込んで、有無を言わせず場を盛り上げ、「なぜこの人がここに?」というしかるべき疑念をこっぱみじんにこに打ち砕くのです。
凄く楽しそう!こんなことやってみたい!捕まりそうだけど。
ゲリラ演劇も面白そう。やってみてはいかがでしょうか。
僕が選ぶお気に入り語り台詞15選
「この広い世の中、聖人君子などはほんの一握り、残るは腐れ外道かド阿呆か、そうでなければ腐れ外道でありかつド阿呆です。
「若人よ、自分にとっての幸せとは何か、それを問うことこそが前向きな悩みだ。そしてそれをつねに問い続けるのさえ忘れなければ、人生は有意義なものになる」
「人生論なんか、ちょっと年食ったオヤジなら誰だって言えるよねえ」
かくして私は呟いたのです。
夜は短し、歩けよ乙女。
恥を知れ!しかるのち死ね!
「今までの人生で読んできた本をすべて順に本棚に並べてみたい。誰かがそう書いていたのを読んだことがある。そういう気持ちが君にはあるか」
迂遠すぎる計画をいったん白紙に戻して、より完璧な計画を練り上げたというのに、白紙に戻したはずの計画が勝手に進行していたとは誤算であった。
「さて、どうしてくれようか。今ここにたまたま破廉恥な桃色のブリーフがある。これをおまえに穿かせて、百万遍交差点中央へ放置するのもまた一興」
「桃色で、しかもブリーフだと!おお、神も仏もないのか!」
私は言った。「彼女がすべてに優先するのだ」
パンツ総番長は呻いた。
「ハッピーエンドだ。誰もが赤面することうけあいだ」
「それでよし!」
「泣いておいでですか、先輩」
「泣くものか。眼から、いささか塩水が出た」
「地に足をつけずに生きることだ。それなら飛べる」
彼女は、少し熱っぽいのです、と言って笑った。
「私も風邪を引いたかもしれません」
人事を尽くして、天命をまて。
かくして先輩のそばへ歩み寄りながら、私は小さく呟いたのです。
こうして出逢ったのも、何かの御縁。
もっと沢山の名言や迷言があるのですが、僕のお気に入りということで、多くの中からピックアップしてみました。あなたも先輩たちのドカンと心に突き刺さるようなお気に入りの台詞を探してみてはいかがでしょうか。
後語り
はあ、京都に行きたいな。森見さんの作品を読んでいると京都に行きたくて仕方なくなるんです。そして僕はいまだに一度も京都に足を踏み入れたことはないのです。なので、始めての京都で僕は、黒髪の乙女と一緒にはしご酒をするんだ!それが僕の夢です。叶えられますかね?
あ、最後にひとつ。僕、明石さんの方が好みです。
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